学校法人日本医科大学
日本医科大学 脳神経外科学教室 Nippon Medical School Department of Neurological Surgery
前部長のつぶやき

福島先生とのこと:洗脳と感動  師とする喜び

前回◯◯◯●プでの洗脳のことを書いた。洗脳が人生に影響を与えることもある。今回はそんなことを書きたい。

先日久しぶりに福島先生とお食事する機会があり、77歳になられたというが相変わらず意気盛んで手術のことを考えられているお姿を見て福島先生とのことを思い起こした。以下は福島先生の脳神経外科人生50周年記念誌に寄稿したものを一部改変したものである。記念誌をお持ちの人には繰り返しとなり申し訳ありません。

私が福島先生(以下先生のオペ記載や外来記録のサインからついたあだ名と思うが、 ◯福と呼ばせていただきます。)に師事したのは1984-86年の3年弱である。でもその3年弱は私の人生を大きく変えることになった。その三井記念病院脳神経外科でのことを中心に回顧したい。

当時から東京大学の医局では福島先生が部長を務める三井記念病院は、“際物”の位置付けで、月月火水木金金(土日)週8日の感じで働き、手術をする場であった。つい先日も全く同じことを言っていた。「福島先生は(と自分で言う)休まない。週8日働くんだよ」と。三井は福島先生と性格が合わない人はちょっと敬遠すべきという関連病院であった。私が知る範囲で三井で◯福先生の薫陶を受けた東大の教室員は 金彪 永田和哉(2006に早逝された超有名術者) 藤巻高光 淺井昭雄 田草川豊  伊藤正一 脇谷健司 張漢秀 谷口民樹(敬称略)などである(忘れている先生がいらしたら失礼いたしました)。同僚の塩川先生は学生時代に研修したそうである。だいたい東大からはいちどきに3名くらいのローテーターがおりそのほか◯福先生が近隣の病院からスカウトしてきた玉川先生、宮崎先生という古参の先生がいらした。彼らはとても人柄が優しく東大卒の尖った(?)雰囲気を和らげてくださる存在だった。週3日の手術日があり一日に6件強の手術をする日(うち4-5件はジャネッタ手術で プラス脳動脈瘤やATなど)が毎日のように続く。医局は外来の裏にあり、そこには三井で昔使っていた長島の顕微鏡がおいてあり文字通り牛乳瓶の底でバイパスをする技術(◯福先生の口癖である)の練習ができるようになっていた(ただ本当に皆がしていたかは想像にお任せします)。隔日でマイクロの深部の手術があるので、当然医局内での皆の関心事はマイクロ手術であり、日々進歩する◯福の今日の手術のことである。毎日毎日医局と病院で暮らし、看護師さんとも飲みに行くのはほぼ1日おきであった。その頃の看護師さんたちとはいまだに仲良くさせてもらっている。労基が強く注意喚起されている昨今であるが、人間そのようにガムシャラに働き・遊ぶ時期というのは必要なのではないかと思う。

ジャネッタ手術にも色々な課題があり、たとえば人工硬膜(liodura:今はCJD騒ぎで使われなくなったが、死体の硬膜を鞣したもの)を硬膜の補填の用いていた頃はよく皮下髄液貯留とそれに伴うchemical meningitisが発生した。これを直すためにステロイドの髄注とか時にはゲンタマイシンなどの髄注を行ったりもした。テフロンがいけないのかなど疑ったりもした。しかし筋膜をとって硬膜補填をするようになった途端にこの課題は一掃された。驚くべき手技による革新である。◯福先生がそのことをどこから取り寄せたのか?考え付いたのかは今になってはわからない。誰もが言われるがままにしていてそう改善された。今のエビデンスやら倫理委員会をへた症例研究やらに縛られる検証ではなく、日々の合併症とその対策の試行錯誤が臨床の技術を大きく変えるのを目の当たりにした。また私の宝物でもある◯福先生の三井記念での手術記載は、様々な注意点、改善すべき点が(4次元的に、術後の合併症も含めて)記載されている。また術中のちょっとした失敗への感情の高ぶらせ方はすごい。一度ご自分でATの顔面神経を切ってしまったことがあるが、その時はオペ着のまま手術室のタイルの壁を半分くらいまで駆け登って悔しがった。自分があれをやったら次の手技はできなくなりそうだが、それで心の平静を引き寄せるのか、そのあとは落ち着いて手術を続行されていた。感情と手の技のコントロールが、先生の得意なドラムベースに似ている(添付漫画参照)。

時にはうまくいかない手術もある。そういった時に◯福先生は皆が声をかけることができないくらいひどく落ち込み、一言も口を聞かず、外来の机にうつぶせて頭を抱えているのが常であった。 しかし◯福先生の驚くべきことは、その晩に何があったのかはしらないが、その翌日にはしっかりと回復し、元の張り詰めたような“元気”を取り戻していることである。さらに次の前回うまくいかなかったのと同様な手術では、またどこから手に入れたのかわからない情報か、考えついたのか、新しく聞いたこともないような手術方法で治療を行った。ルーチンの中にも革新があり、私が三井にいた3年間にも多くの変革があり、そのような手術の発展を目の当たりにしながら若手は学ぶことができた。ご存知のVinko Dolenc先生が来日され日本に頭蓋底外科の嵐が吹き始めたのもちょうどその頃である。慶應大学の河瀬先生と◯福先生はお互いに切磋琢磨しながら日本の頭蓋底の黎明期を支えていらしたと思う。先生の最初のCavernous sinusの手術、そして両側巨大海綿静脈洞部の血栓化脳動脈瘤をCUSAで減圧し、その両端をSaphenous vein graftでの繋ぐという発想に至った手術も目の前で行われ、助手で入らせてもらっていた。新しい手術が生まれてくる日々であり、◯福先生の口癖のような「夢」は自分の名前のついた手術、手技を提案することであった。当時頭蓋底のアプローチに色々な名前がついてきたのは、その時流でもある。白馬先生の内側海綿静脈洞ルートや河瀬の三角など、様々な名前が生まれたわけである。後にJNSにSpetzler先生がFukushima Bypassとして発表した先ほどのCSのDirect bypassもその一つである。

私の個人的なことをいうと、私はかなり鈍臭かったのだが、ヘマをして腹を蹴られたり足を踏まれたりする訓練医が多い中、自分に都合の良い?記憶によれば私は一度も蹴られたことはない。いちどジャネッタで9番をくも膜のひだと間違えて切ってしまった時にはかなり怒られたが、、、。でもそれで9番を切っても何も症状(嚥下障害を含めて)は全く起こらない(多分片側咽頭反射は落ちていたと思うが)ことを知ったわけである。そんな中、金先生がMayo Clinicに渡り華々しい活躍をしている話が聞こえてきて、◯福先生は私にどうしてもMayoにいけ!!と毎日洗脳のように繰り返された。当時のMayoのchairmanのTM Sundt先生は◯福先生を可愛がっており師匠でもあった。そいうわけで三井記念とMayoとは繋がりがあったわけである。そのように毎日言われると「Mayoに行く」のがいつしか自分で思いついた夢のように思えてくる。英語の“超々”不得意な自分であったが、頑張る意欲が湧いてくる。英語の論文を書くことも毎日のように呪文のように言われる。それはまず張先生に先を越され(彼は非常に優秀で英語論文が書き始めて翌日にはできていた)てしまった。私が三井記念で書いた英語論文はたったの一本であるが(他に日本語で数本書いたが、そんなのは業績としては跡形も無い)、自分の最初のJNSであり、拙い絵が表紙にもなった。

技術的には三井で◯福先生の前座で務めるジャネッタ手術300件(うち完投したのは数件であるが)の経験は自分のマイクロ技術を数段高めたと思う。その後研修で過ごした富士脳研、都立神経病院では多くの重要な手術を任せていただくことができたし、何しろその後いくことができたMayo Clinicでは、Sundt先生からお墨付きをもらうくらい、“TechniqueのAKIO”で通るようになっていた。相変わらず言葉は結局からっきしだったので、陰ではIDIOT(白痴)と言われていたので、「テクニックしかない」という一部揶揄する意味でもあるとは気づいていたが。米国では、日本の標準の技術を持っていれば誰でもSpecial Technicianになれるわけである。一方で言葉ができず自分の意見を言えなければ、白痴扱いである。そう言うわけで若手には英語でプレゼンさせているわけである。

さてMayoにいったのちも◯福先生との関係は続く。◯福先生が骨髄腫にかかっていたSundt先生のお見舞いに来られた時にSundt先生ご夫妻と一緒に食事させていただいたり、金先生や福島先生の助言もあり、Sundt先生は私をその後Mayoのレジデントとしてくださり、米国での専門医をとる道をとることができるようになった。Mayoでは研修医は土曜日のカンファランスで自分のまとめてきた教育レクチャーを1時間弱する機会を与えられる。私は英語がひどかったため2年目の時にやっとそのチャンスをいただけた。その時◯福先生に先生の三叉神経痛のデータ、資料を貸していただくことができた。そのレクチャーがどうだったかは忘れてしまったが、その時に◯福先生がくださった手紙は今でも私の宝物である。最後に「死ぬつもりで頑張れ」とある。今もし上司がこのようなことを言えば明らかにパワハラであるが、何者かに打ち込む時に、一心不乱にガムシャラに、文字通り死ぬ気になって一生懸命やらなければ、物にならないこと。そういうメッセージだったと思う。

私は当初の「夢」(実は洗脳)であった「最低でも5年の軍隊式米国脳外科トレーニングに身をおくこと」を果たしたが(MayoとGorge Washington大学 合計9年弱)、結局は2番目の夢であった米国で脳外科医として大活躍すること はできなかった。それは今福島先生が果たされている。

◯福先生は私が米国に渡って間も無く、ご自身もUniversity of Southern Californiaに教授として迎えられて渡米された。その後、PittsburghのAllegheny大学、フロリダをへて現在のDuke大学に落ち着かれた。その間も多くの日本人、米国人、西欧人のフェローを取られ教育されてきた。日本でも多くのテレビ番組で先生の活躍は注目されている。なにを隠そう先生を最初の全国番組で紹介した情熱大陸に紹介したのは東大時代の自分である。

これまで1984年から34年間、先生とはカダバーのコースに参加させてもらったり、ピッツバーグのご自宅に泊めていただいたり、色々なことを学ぶ機会があった。しかし何しろ最初の3年間の三井記念病院での◯福塾での経験は私のその後の人生を展開するきっかけと土台を造ってくれた。苦しい時もあったと思うが、自分中では楽しかったという思い出しかない。自分にとってもっとも大切な手術というものが、決まり切ったしきたりや限界があるものではなく、自由な発想と努力でどこまでも進歩できるものであることを教えられた。

福島先生は発言がストレートなので、色々と反発を受けることが多いが、◯福先生の根底にあるのは、非常に純粋な少年のような心であり、脳疾患を患う目の前の患者をいかに良くするかという強い意志と努力である。「夢」を追い求めるのは、何歳になっても可能であるということをご自身で実践されている。

私自身が残された人生で何ができるのかわからないが、本当に福島先生を師匠に持って誇りに思う毎日である。

以下福島先生の紹介ビデオです。

instagram
facebook
yutube