2018. 01. 01
年頭のご挨拶
「考えるということ」の大事さ
明けましておめでとうございます。
皆様ご健勝に新年を迎えられたと思います。
さて早いもので、私が赴任してからすでに5年が経過し、折り返し地点にきました。昨年も同様な内容を書きましたが、この5年間でできたことというと、本当に申し訳ございませんが、恥ずかしいくらいのことしかできていません。寺本先生と教室の先生がたが築きあげた大教室の名に恥じないようになんとか教室の活動を鈍らせないように、臨床や教育、研究活動に頑張ってきたつもりでありますが、実際のところ成果となっているのは少ないというのが現状です。
今後成果を出してゆくように益々努力するつもりですので、何卒本年もよろしくお願い申し上げます。
さてこの一年、また数年で大幅に進歩してきたことというと先日もテーマに挙げたAIであると思います。昨日(12月31日)もNHKラジオで午前の約2時間を使ってAIに関する討論会がありました。その中で、パターン化した仕事はAIが担当し、その場その場で臨機応変に考え、実行するという力が最後に人間に求められてくることであろうということを感じました。
実際自分の日々の活動を見ていると、パターン化された業務をこなしていて、手術でさえ、その場の状況をみて、これまでの経験の引き出しから対応策や手技操作をしている状況であると思います。実際に手術の現場がAIに置き換わる日はそんなに早くは来ないと思いますが、実際に自分たちで、経験や記憶に頼ることなく、これまでのreferenceから引いてくることなく「考えている」時間は一体どれくらいあるのでしょうか?
「人間は考える葦である」という有名なパスカルの書籍の中の言葉があります。人間の尊厳は考えることによってのみ保たれているということです。
現在の医療は、様々な形、しきたり、決まり、倫理、個人情報保護、そしてEvidence based medicineに縛られ、自分で考える医療をするということは臨床医学の実践ではほぼ不可能になりつつあります。これでは多分極めて近い将来AIの方が正しい医療を我々に指示してくれるでしょう。
前例がない手術、前例がない事例は、無謀な賭けか、よほどの根拠がない限り
前に進むことすら難しくなっています。ジェンナーの種痘の開発のエピソードはよくご存知かもしれないが、その時代でも英雄的な活躍する人がいないと新しい医療は生まれなかったのである。
そこにもし考えない日常を過ごしている自分たちしかいなければ、医療における人のいる価値がなくなってしまう。
ぜひ「研究」(基礎研究に限りません)する心を持って、問題を解決する努力、思考、そして行動する力をつけて行きましょう。日々新しい道を考えることによって、人主導の医療を組み立てて行けると思います。そのためにまだ医療においては黎明期であるAIをうまく活用し、共存しよりよい医療を作る道を探してゆかねばならないと思うのです。例えばBig dataが使えるようになって来ました。そのデータをこれまでの手法のような決まった我々が考えるfactorを元に解析をするのではなく、全てAIにまかせて見てはどうだろうと考える。
そうすることによって、全く予想にもつかなかった因子がくも膜下出血の予後を規定している などということが発見されるかもしれない。例えばそのFactorは入院時のGradeや年齢、水頭症、再破裂の有無、出血量、動脈瘤の場所、動脈瘤の大きさ などではなく 実は「兄弟の有無」「既婚かどうか」などかもしれない。予想しないような因子が実はSAHの予後を決めていた。などということがわかったらとても面白い。しかしこれも途中からは「考える」という操作は全く入っていないわけである。コンピュータが計算し統計学的なデータを出してくるの待つだけとなる。
積極的にいつも考えること。不思議なこと、未解決のこと、わからないこと。
恥ずかしがらず、それらを口にできる環境を大学という施設で提供するのが私の役割であると思っています。
私も今年1年また考え続けますし、皆さんも考えましょう。
そしてその「考える場」を共有できる環境を作りましょう。
2017年3月 Hagia Sophia, Istanbulにて
本当に人の歴史について考えさせられる場所でした。