学校法人日本医科大学
日本医科大学 脳神経外科学教室 Nippon Medical School Department of Neurological Surgery
前部長のつぶやき

夢と目標:200回記念号にむけて

夢と目標:200回記念号にむけて

(一部 医学書院「脳神経外科」扉に書いた「夢を求めて」を改変したものです。)

日本医科大学 脳神経外科    森田明夫

「皆さんの夢はなんですか?」

最近講演や学生の講義で夢について語ることがある。

夢は目標とは似ているが、ややニュアンスがことなる。夢とはやや漠然として、自分のなかでも「なかなか難しいけどかなうといいな」と思っていること。また目標は数ヶ月、1年とか長くても5年とか比較的短い期間で達成しようとする事柄であるのに対して、夢はもう少し長い期間、その時の人生をかけて“想う”ことと考えてほしい。どちらも何歳になっても持ち続けるべきものだと思う。「夢」は人生の指標で、「目標」は行動の指標となるものと思う。また別の視点からすると目標は自分の努力でなんとかできるもの。夢はそのときの社会や運、生まれ変わりなど時間的な制限で左右されてしまうものとも言える。

いろいろな雑誌などで私の脳神経外科へのなれそめは書いた。小学校のころベンケーシーという脳神経外科医のテレビドラマをやっていた。今YouTubeでみるとかなり簡素な作りである。でもその中で硬膜外血腫だったかの手術で、頭にドリルで孔をあけているのをみて、翌日学校で話題になったのを覚えている。丁度そのころ人間のからだにも興味があった、カエルや鯉を捕まえてきては解剖もしていた。ちょっと麻酔薬とかなかったので、かわいそうである。その頃の影響で今は料理もすきだし、魚もさばける。さすがに人間の解剖はできないので、プラモデルとなる。一つは透明の人間のなかにはいったサマザマな臓器。極めつけは「偉大なる頭脳」であった。当然今も頭脳は偉大とおもっている。そのプラモデルからなんとなく脳神経外科医を夢見るようになった。その後運がいいのか、どこも滑り込みでそこそこの教育機関で学ぶことができた。その時々で周囲の環境に影響されて自分の夢を引き上げてもらったと思う。

大学では本当の意味で遊びほうけていたが、なんとか(勉強漬けだった)自分の人間性の乏しさを克服すべく色々なところへ旅をした。シベリア鉄道は中でも秀逸というかスリリングな旅でもあった。至る所にソビエトの兵士がたっており、しりあった早稲田の学生さんは禁書持ち出しの罪でつかまってしまった。

その後の夢も出会った人たちによる。20台は福島孝徳先生(1980年代当時の)になりたかった。毎日手術をたくさんして、患者のことを想い、独特の勘で解決策や新しい治療法を日々みいだしていた。その先生の強い薦めでMayoに渡った。そこでであったのは余命宣告期限(当初は半年と言われたらしい)の時期からもう4年たっている骨髄腫に侵されたSundt先生である。死を前にして、なおも患者のために働く姿を前にした。全身の痛みのなかでもいつも背筋をのばし、鋭くかつ優しさを湛えた目で覗き込んでくる。自分の病気は以前執刀した20台の女性の動脈瘤手術が上手くいかなかったから神様が私を罰しているのだと話されていた。病魔のなかで現在の世界の名著2つ Occlusive Cerebrovascular DiseaseとSurgical Techniques for Saccular and Giant Intracranial Aneurysmsを記された。多分Sundt先生の残された命への夢はその本を書き上げること。そして一人でも多くの後進を育てることであったと思う。30台は「Sundt先生になる」という夢はおこがましく、ぜひSundt先生と手術をする、3ヶ月(Quarterという)assistantをさせてもらうことを一生の夢としてもよいと思った。1992年の1月から3月は自分にとって最高に幸せなときであったと思う。30件を超える巨大動脈瘤を含む手術の1st Assistantをすることができた。同年9月にSundt先生は亡くなられた。以前からお好きだといわれていた白いグラジオラスをおくった。自分はSundt先生にはなれないし代わりが勤まるとはおもわないけれど、なんとか同じ視線と努力をしたいと今も思っている。40でGeorge Washington大学から日本へ帰国した。米国では40歳はOver the hillといって黒い風船をプレゼントされる。GWの私の部屋にそれが浮かんでいて何だろうと思ったのを覚えている。「40でやっとスタートか?」とシニカルな同僚にも揶揄された。人は何歳からでも始められるし追いつくぞと思った。東大に帰り自分の手術領域(それまでは人に習うばかりたったので)を作りたかった。東大では桐野先生から多くのチャンス(夢のきっかけ)を頂いた。多くの難手術もロボットも動脈瘤の研究もである。自分をつくる。まだそれも完成してもいないが、今は人に私の経験を伝えたい。そのための方法が学生や後輩の教育であり、教科書であり、多分もっとも重要なのは情熱であると思う。まだまだ自分でやりたいことも多い。Robotを世に出すこと。機能再建の治療技術を確立すること。そして安全な医療と情報を提供できる環境を作ること。欲張りだなと思う。どれも目標?と言われそうだが、目標はそんなには持てないし、自らそれをかなえる計画をもっていない。私はそれらを夢と思っている。その場しのぎともとられるかもしれないが、夢を現実(目標)に近づけるためには自由な発想に基づきその時点で出会ったもの、探し当てたもの、新しく見いだした方法がそれをかなえる“つて”となると思っている。目標と違い明確な手段がない。いろいろな偶然から人の一生は変化してゆく。だから夢は曖昧であるが、その時に応じて変化してよいと思う。人それぞれの生き方や周囲の偶然で、夢はかわるのだと思う。

近頃すきなTV宣伝がある。一流の建築家になった父が娘からお父さんの夢は何なの?ときかれるやつである。 “?” となる。何歳でも夢はもてる。60歳からでも新しい手術法を見いだすことができると思う。

夢を目標に一歩でも近づけるためには、手段をみつけなんとか自分でかなえる術をそなえていかねばならない。そのために、一生懸命にいつも最前線で、きっかけをさがしていることが大切なのだと思う。夢をかなえるきっかけの多くはほんの隅の方に隠れていて注意深くみていないと見過ごしてしまう。

夢の一部や、またあらたに見つけたことを自分の目標と定めたのであれば、それは一心不乱に追求することが必要であろう。

先に紹介したSundt先生も福島先生も桐野先生も、“Compulsive”という言葉(ニュアンス)が彼らの行動や言動にあった。直訳すると“強迫観念にとらわれた” とややnegativeな印象となるが、実際にはまじめにまっすぐと物事を見つめ、努力するという意味と思って欲しい.目標に対してはいつも真摯に向かってゆく気構えが必要なのだと思う。

皆さん 夢をもち 求め、目標を持ち、努力しましょう。

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